2000年以上も前から人間がしてきたように、僕も前例に倣って「苦しみ」について考えることがあるのだが、今の高度化した社会においては「苦しみ」は肉体的なものからくることは少ない。基本的に精神的なものからくる場合が殆どであり、その場合に「意志」がかなり関係していると感じる。
意志が強いにしろ弱いにしろ、その拒絶や抑圧が裏返しとしてのしかかる。それが苦しみの根源であることは往々にして多い。僕の場合はどういうわけか、小さい頃から意志がわりかし固く(自我が強いとも言える)、周りの言うことを信じずに生きてきた。小学校での孤立感は辛かったが、中学などでも浮いたのは確かだが、勉強が出来るという点で割と自分の現状に対する苦しみに悩むことはなかった気がする。
それが社会に出るにつれて、その拒絶の頻度や重さのレベルが上がってきた気がする。意志のレベル(視座と言っても良いかもしれない)が上がったが故なのかもしれないが、コロナの不確実性も合わさって、なかなか昔のように心を落ち着けるということが出来なくなった。外国で一人戦っていて、かつフルリモートであるのもあるのかもしれないが、自分の意志に対する不安感、つまり言い換えると自分に対する劣等感といったものから中々脱却できず、かつ家にいるが故に変に向き合ってしまっているのだ。
この解決策として「自我を忘れる」という悟り的なアドバイスを幾らか受けてきた。確かに論理では分かるのだ。抽象度を上げて全てに対して愛を持って育む的な態度だ。ただこうした悟りの境地に対するある種「逃げ」的な印象も拭いきれずにいた。
僕はまだ30年しか生きていないのだが、個人的にこの「強い自我」や「固い意志」に対する対処法としては、「時間をかけた辛抱」しかないのではないかとも思っている。結局それが自然に消えることはないし、人工的に散らしても長期的には不健康であるのだ。そうすると、向き合うしかなくて、その場合は「意志を実現」する以外に脱出の方法がないのではないだろうか。「意志を実現する」と書くとかっこよく見えるが、問題なのはそれに困難が伴い、いやむしろその実現に至るまでの道のりは殆どが失敗や拒絶が押し寄せる点である。結局、その「失敗や拒絶」を如何に織り込み、実際に経験したときに如何に素早く立ち直れるかというところに、人間の啓発や宗教は解を出そうとしてきたのではないだろうか。
なぜか今日は極めて抽象度の高い文章になってしまった。僕自身はこの数年で「辛抱の先にある希望を見出そうとしてきた」、いや「それを正当化しようとしてきた」のだと思う。それをまあ簡単に「苦しみは報われる」と認めることもできるが、その苦しみを紐解いてみると、極めて奥深く根深い問題が居座っている感覚がある。この自分の中の陰の部分を乗り越えた余裕と自信を付けることが出来るようになるのが、2020年代の抽象的な目標なのかもしれない。