日本は年の瀬で、ようやく2週間の隔離が空けて自由の身となった。今は山中湖に来ている。今年は自分の人生の中でも大きな一年になった。依然コロナによる不自由な世の中において、最大の転機となった一年であった。今年の振り返りと来年の抱負、そして10年後のビジョンを記しておきたい。

今年はMicrosoft Japanでのインターンから幕を開けた。しんどかった2020年も忘れ去り、日本で迎える年明けは清々しいものであったし、物事が好転していく自信はあった。1月にAdobe 3DのPMインタビューが来ており、これに標準を合わせつつも、MSでの仕事や福岡への旅など多くをこなしていた。そして下旬にはUSへと旅立った。この時はインタビューがなかなか決まらない焦りはあるものの、MBA/MEngのAkiliとのプロジェクトを率いたり、運転免許を取ったりとかなりやるべきプレッシャーが多く、バーンアウトしかけていた。場所はAndyの家に居候していたのだが、San Diegoに行ったり、春休みにNew OrleansやMiamiに出かけて気分転換していた。依然この頃はコロナの恐怖はあった。

4月や5月になっても、就活の状況は好転しなかった。ネットワークをし続けていたけれども、何かにつながる機会もなく、時は残酷にも過ぎ去っていった。そんな中でワクチン接種も一般にも解禁され、僕は心臓の異常があることもあり、接種をすることを決めた。そうして免疫がついた状態で、兼ねてから行きたかったアメリカ国内旅行をすることにした。テキサスからシカゴやプエルトリコ、LAといったあらゆる場所を見て、感じ、アメリカの雄大さを体感することができた。1ヶ月の長旅で、物凄い移動もあったこともあり、一旦場所を落ち着けようとハワイに移動して就活に専念することにした。けれども、やはりこの2年間の消耗はかなり激しく、時間があって快適な環境でもなかなか集中することは難しく、機会もたまにぽっと出ては消える、といった感じであった。

けれども7、8月にDeanからUnity CEOを紹介してもらい、ピッチをする機会を得た。これが最後の大チャンスだと思い、10枚くらいのスライドを作ってプレゼンした。どうつながるかわからなかったが、幸運にもExecutive4人を紹介してもらい、僕のためにポジションを作ってもらった。ただ、9月のビザ期限ギリギリまでどうなるかわからず、家も契約することができずにいた。結局始まる1,2週間前に正式なオファーレターが来て、満を辞してベイエリアに残ることが決まった。

9月は新しい職、新しい場所への引っ越しに苦労した。そもそも家具を一からセットアップしなければならなかった上に、仕事が始まった後に引っ越すことになってしまった。それでもイノベーションの最深地であるPalo Altoに一度住みたかったし、陽の雰囲気こそが自分の人生を前に進めてくれると思った。仕事の方も、始まったは良いものの最初は自分の担当プロダクトやましてや上司も決まっていたなかった。とりあえずIndustryのチームに手当たり次第に声をかけて、誰がどのように仕事をしているかや今現時点での課題のようなものを吸収していった。

結局しっかりと仕事が始まるのが10月の頭であった。けれども上司のDavidは非常に気さくてチルな人物であり、チームもカナダではあるがとても良い人たちであった。良いチーム、会社に恵まれたことは本当に幸運であった。けれども建築3Dということで、Domain knowledgeが必要とされる分野で、オンボーディングにはかなり苦労した。建築、設計、運営がどういった流れで動いているか、どこに課題があるかを学ぶ必要もあるし、ソフトウェアの深いレベルでの知識も吸収する必要があった。そしてチームもかなり複雑であり、どのプロダクトがどういった動きをしており、どういうプロダクトマネジメント方式になっているのかを1on1などを経てなんとか理解していった。さらにこれを全て英語で行う必要があり、本当にボロボロになりながらも、2ヶ月を経過する際にはQuest2に関するFeatureで自分でKick off meetingを回せるくらいには慣れることができた。

12月はNew Yorkへ行って日本に帰ることになるのだが、最後の最後でもオミクロン株という脅威が待ち受けていた。11月までは隔離が10日に短縮されたり、ビジネストラックも再開になったりと良い感じの雰囲気であった。しかし、南アフリカで変異種が発生し、急速に風景は一変した。隔離期間は14日間に戻り、政府指定のホテルには3日間強制隔離、同乗者に感染者が発生した場合はそれが14日間強制になる。そうしたギリギリまで自由を奪われる状態でようやくこの年内最後の週明けから自由に移動することができるようになった。もちろん帰国前に感染するリスクもあるので、まだ安心はできないが。隔離明け後は、京都やら伊東、名古屋、山中湖など多くを行き来して、お世話になった人たちと直接会って食事をした。これは僕なりのけじめであり、この転機を支えてくれた人に感謝を伝え、次に進むという意思表示であった。

以上を振り返ってみると、今まで20代で何をしたいのかが分かっていないところから、色々な経験や挑戦を経て、ようやく辿り着くべき場所に辿り着いた感じがある。ベイエリアにおけるPMとして3Dの最先端の企業で挑戦する、というのは僕の描いていた目標であり、多くの犠牲を払ったが、30代頭にして到達することができて本当に嬉しく思っている。

一方でこの2021年は尋常じゃないほど辛かった。2020年もコロナがヒットして苦しんだが、輪を懸けて苦しい一年であった。夜明け前が一番暗いとは言うが、まさにそういう感覚を味わった。コロナの変異種などが出る不確実性の中、新たなるピボットを求めて職を探し、友人たちとの接点も中々持てない孤独の中、良い知らせを耐えて待ち続けた日々であった。多くの人たちに電話をかけてはその寂しさを紛らわしたり、現場から目を背けようと酒を飲んだりもした。けれどもそれが直接的にどうなることもなく、最終的には辛抱し続け、諦めるギリギリでの戦いを強いられた。多分この経験は共有できるものでもないし、共有するべきものでもないと思っている。このコロナ禍において転機を求めた多くの人は苦しい経験を味わったはずだ。拒絶や隔離、孤独や絶望など振り返ってみれば多くの負の感情を潜り抜けてきた1年間であった。こうした経験を癒すにはもう少し時間がかかるのかもしれない。今回帰国して改めて日本の良さを実感したし、日本との繋がりを物理的にも持つ重要性を感じた。

2022年の抱負としては、やはりPMとしてベイエリアで成果を出すことだ。しっかりオンボーディングできた一方で、これからは与えられた役割をこなしつつ、価値のあるプロダクトを作っていく。本当のPMとしての自信が身に付く期間であると思っている。以前のようなピボットの為のリスクテイクとは違った責任が求められることになる。コロナ次第でもあるが、カナダにも何度か出張しチームメンバーと実際に会って、信頼を深めたいとも思っている。ビザは学生ビザからついにH1Bへと切り替えることになるだろうし、その後のGreen Card申請も見据えて動いていく必要がある。日本にも余裕をみて帰国したいと思っている。大切な友人が何人か結婚するし、何より日本人の女性と心から家庭を築きたいという気持ちに確信を持った。僕の中にはAR/VRといった革新性と日本の文化といった保守性が共存している。温故知新という言葉のようにUSと日本の良い部分を取る生活を2020年代は実現していきたいと思っている。前からそうなのだが、僕には中間がないのだ。

この休暇中に、2030年のビジョンも考えている。振り返ってみれば2020年も大きな節目と考えており、Stanford留学やビジネス、テクノロジーといったキーワードを抱えて挑戦する2010年代であった。それがようやく全てが結びついたこともあり、次の10年を見据えた人生設計を行おうと思った。2030年はグローバルにAR/VRで成功の狼煙を上げ、日本人女性と幸せで安定した家庭を築くというのが2大目標である。これは上に掲げた僕の中の革新性と保守性であり、自分でもここまで異質なものが自分の中に同居していることは不思議な感覚がある。以前書いたように、中間がない生き方であると思う。ただ、振り返ってみればこうした異質なものを異質なものとして存在させ続けて、点を繋いでいく作業をずっと行ってきた人生であった。20代の自分を顧みれば、医学部に始まり、ダブルダッチやデザインスクール、旅やBerkeley MBA、そしてUnityという極めて異質だが強い点を打ってきた人生であった。ただ今回の転機を成功させることが出来たことは、僕にこうした異質で周りとは違い、理解されないキャリアを取る自信を与えてくれた。純ジャパはUSでは戦えない、医学部出身は医学にしか専門性がないからヘルスケアのキャリアしかない、USで戦うならずっと1箇所にいる必要がある、といった多くの当然とされてきた思い込みを可能に変えることが出来たことは大きな自信に繋がっている。

こうして最後にボロボロになりながらも、今年も安らぎを得ることが出来て嬉しく思っている。今年ももうあと6時間ほどで紅白が始まる。来年は人生の夜明けとして、大きな飛躍ができる年になることを祈って残りの時間を過ごしていきたい。

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