今はアメリカ時間で7月1日の金曜日の朝。パロアルトで目覚め、HanahausにあるBlue bottleに来た。3年前に渡米した時に、新井とIndependence dayの週末をここで過ごしたのを覚えている。その時からMiaに住みたいという気持ちが芽生えたし、このブルーボトルで朝に作業したいと思っていた。今日は僕の人生でかなり大きな転機になる日であると思う。

ここ最近のハイライトとして、去年からやってきたReflect ReviewのQuest Store向けプロダクトが無事Meta側に承認され、実際に昨日ローンチされた。ReorgやHiring freeze、パフォーマンスやAuthの問題など多くの壁が立ちはだかる中で、ようやくきちんとした形のあるものを出すことが出来て初めて肩の荷が降りた感じがしたし、プロダクトマネージャーとして一皮剥けたと思う。

そしてレイオフされた。

本当に突然だった。昨週末にManagerからレイオフリストに載っているかもしれないから今後覚悟しておいてと言われて、かなり動揺したが、こんなに早く来るとは思っていなかった。Unity社は確かに人員を増やしており、RevenueもExpectationをミスしたが、Digital Twinチームは明らかに人が足りている状態でもなく、僕自身も4-5個のプロダクトを兼任するような状態であった。それが火曜日にいきなりSVPとの面談が入り、そこでレイオフが伝えられた。

この1週間はまずその現実の理解と、感情的な整理で多くの労力を要したし、色々な人と話したが、もはやどう言ったことを話したのかの記憶すらない。僕にとって、この出来事はあまりにもショッキングなものであったのだ。レイオフというのは、日本ではあまり耳にしないかもしれないが、リストラとは少し違って、パフォーマンスが悪くて切られるというよりは、会社都合でパフォーマンスとは別の理由で切られることだ。僕の場合は他のカナダのメンバーと違ってサンフランシスコにいたので、その分給料が高く、それが原因になった可能性が高い。僕の周りのVPやIndustry Managerもサンフランシスコベースの人が数多く切られていた。なので、この出来事が、将来に直接悪影響を与えるという訳ではないことを理解した。

とは言っても、これにより今までやってきた物が全て飛び、手繰り寄せていた確実性への糸がぷつりと切れてしまった。再び学生ビザの滞在限度問題や地獄のような就活インタビューへと戻らなくなってしまった。かなり理性的な僕でもこうした以前のトラウマ的な戦いに戻るという現実を認識した時に、多くの物が壊れてしまった。

Steve jobsのStanfordでのスピーチの

“We had just released our finest creation — the Macintosh — a year earlier, and I had just turned 30. And then I got fired. How can you get fired from a company you started?”

“So at 30 I was out. And very publicly out. What had been the focus of my entire adult life was gone, and it was devastating.”

という部分を思い出した。

このブログにも綴ってきたように、20代はかなり苦しい戦いだった。本当にやりたい事を見つける作業と、それと実力とのギャップに苦しみ、そんな中でも渡米し、なんとか機会を得た。仕事は忙しく責任も重いもののようやく慣れてきて価値が出せるフェーズに入ってきていた。そうして今回の重要なローンチのまさに直前にレイオフされたのだ。まさに天国から地獄とはそういう事である。レイオフ自体が全く寝耳に水かというと、USで働く以上ある程度そういうことはあるなとは思っていたが、それがこんなに急で不透明性を持って行われたことは想定していなかった。昨日までお世話になったチームメンバーに直接お礼を伝え、そして全てのアクセスが絶たれた。

そうして迎える今日7月1日。新たな2022年下半期。それが今日なのである。

今後どうなっていくかは正直わからない。ただ、アメリカに来て3年、あまりにも多くのものを失いすぎたと思う。もちろん得られた経験はかけがえが無いし、今後テクノロジービジネスという点で日本よりもアメリカの方が依然有望であることも分かっている。ただ、想像以上の喪失と苦しみを味わい過ぎた。2019年に渡米してパロアルトに来た時は、ワクワク感とベイエリア特有の涼しい爽快感が合わさり、Miaのベランダで沈みゆく夕日を見ながら友人と酒を飲んだ楽しみがあった。それから3年。異国での生活の中で、コロナがヒットし生活はめちゃくちゃになった。街はロックダウンし、BLMなどの打ちこわしもあり、サンフランシスコ市はホームレスだらけになった。史上最大級の山火事も同時期に起こり、家の中でも空気清浄をしないと喉を壊す状態になった。会社は一時的ながらHiring freezeを行い、そんな中でもなんとか手に入れたスタートアップでのインターンの機会。無給でなんとか経験を積もうと必死で働いた。経済とジョブマーケットはなんとか復活するものの、リモート化に伴い競争は激化。フルタイムでも50社以上の拒絶を食らう日々。最後の最後で蜘蛛の糸を掴んだUnityであったが、その時は安心する間もなかった。ハワイからベイエリアに帰り働き始めたものの、その時付き合っていた彼女は離れていった。そうして今年に入って漸く仕事も落ち着き、新たな結婚しても良いと初めて思える彼女が出来た。けれども、4月にはコロナ感染に伴い、成田のホテルに隔離され、帰国で会える日程もドタキャンで半分になった。ベイエリアに帰ってからもテンダーロインで深夜暴漢と殴り合いになって殺されかけたり、止まらないインフレや、会社のReorgに伴う仕事量の変化が物凄いことになっていた。漸くそれを乗り越えられる見込みが出た6月に解雇された。そして今の彼女も今のままで良いのか懐疑的になっている。

かなり重い話になってしまってあれだが、流石の僕ももうこれ以上は耐えられないと直感した。僕はかなり孤独にも強いし、理性的でメンタルも割と強い方なんだと思う。周りと違う事をやっていくことに自信を持っているし、危機的状況でもなんとか諦めずにやってきた。けれども、明らかにクライシスが重なり過ぎていて、パンチドランカーのような状態になっている。こうして夢や長期的なビジョンを語って挑戦することは美しく見えるが、実際大きなクライシスが立て続けに、長期間起こると人は参るし、何より壊れる。

ベイエリアに来て3年。良くやったと思う。ヘルスケアから3D業界のピボットも達成したし、USでGlobalにPMとして働く経験も出来た。本当はもっと経験したいというのは有ったが、0から1へと進んだだけでも大きな一歩だと思う。

今後はとりあえず一旦日本に彼女に会いに10日程帰ろうと思う。そんな中で、前兆などに再び耳を澄ませながら機会を待ち、それが途切れたら正式にアメリカを発つことにしようと思っている。

“I really didn’t know what to do for a few months. I felt that I had let the previous generation of entrepreneurs down — that I had dropped the baton as it was being passed to me. ”

“Sometimes life hits you in the head with a brick. Don’t lose faith. I’m convinced that the only thing that kept me going was that I loved what I did. You’ve got to find what you love.”

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です