ずっと僕は考え方について語って来た。それはどうしても、僕の根源であり、僕が悩まされる根源でもあるからだ。
“抽象→具体”の思考法
多くの人は具体の積み上げの先に抽象がある。
けれども、僕はその逆だ。抽象(本質)を直感的に捉え、その後に具体への繋がりを模索する。それが故に、日常生活や社会に合わせるのに目には見えない大きなストレスを感じていたりする。
答え(本質)は直ぐに見える。けれども、その説明(論理)が付いてくるのが遅れる。
世の中的には、論理の積み上げの先に結論を持ってくるコンサル的な思考法の方が好まれる。そっちの方が、過程過程での結論が分かりやすいからだ。
こうした考え方の場合、「努力」が非常に可視化されやすい。努力とは直線的な成長と親和性が非常に高いものであるからだ。だし、世間的にはそう捉えられがちである。頑張った分だけ報われる。まさに正比例の関係を言い表している。正直僕は努力は大事なことだとは思うが、嫌いである。それは、自分の思考法と合わないからだと思う。答えを直感的に捉えて、リープした思考で具体に持ってくる。直線的な論理とは合わないのだ。
ぶっちゃけた話、僕の中で論理は努力でするものではなく、偶然繋がるという感覚で自分の中に育んでいる。
だから数学とかの間違い直しノートなどが嫌いなのだ。
そして何より辛いのが、この苦悩は共感を産まないことだ。ある意味、「努力」の苦悩は分かりやすいので、共感を生む。n時間勉強していましたとか、n時間働いていました、みたいなやつだ。
抽象を具体に下ろす苦悩、世の中に合わせる苦悩はなかなか見えない。故にアーティストや哲学者に思いを馳せてしまうのだと思う。これは「具体と抽象」(筆者:細谷功)という本の中でも書いてあって非常に共感したのだが、抽象と具体には一方通行性があるということが起因している。抽象から具体は見えるが、具体から抽象は見えない、想像もつかないということだ。
解決策としては、自分の中の具体が積み上がってくるのを待つだけなのかもしれない。
やれやれ