Berkeleyを卒業し、5月21日に遂に30歳になった。大きな出来事が連続し、人生の新しい章に入ったように見えるが、感覚としては全く変わらない。トランジションの中でもがき続ける感覚は依然存在しており、とにかくちょっとでも心が動くことを探し、可能性にかけ続ける毎日である。今はテキサスのダラスに移動した。5月最後の日に、20代を終えた今考えていることや、今年一年やってきた事を振り返ってみたい。

人生はランダムなので不幸なことに全く逆の道を選んでしまうことがある。僕にとってのそれは「医療」であり、「大人である」ことを強く求められる場所であったからだった。「大人である」ということとは、自分よりも他者を優先し、規則を守り、発言にも気をつける。いわゆる「社会的に真っ当」であろうとする姿勢である。それは僕の生来ある「子供である」性格に反していた。「子供である」とは、自分の直感を信じ、想像力/創造力を発揮し、従来の拘束に囚われない生き方である。

僕はこのことに20代前半から気付いていた。医学部にくる同級生は皆「真面目」で、ルールから外れることはなく、周りともいざこざを起こさない人たちが多かった。なので、自分に合った場所や仕事を見つけようと、旅やダブルダッチ、文明塾やらデザインスクールなど多くのことを試した。MBAに留学して、B2C領域やAR/VRといった最先端領域に興味を持っているのも「子供だから」だと思っている。

20代を総括して学んだことは、「子供から大人になるのは簡単だ。大人から子供になるのは命を削るほど難しい」ということだった。

まず振り返ってみると、去年29歳の誕生日も同じような感覚を持っていたと思う。行先が見えず、かといって澄ますべき声も聞こえず、人生の危機に陥っていた。こう振り返ってみると、またかよという感じはするが、実際に去年は苦しかった。そして今も苦しみの中をなんとか前に進もうともがいている。こればかりはメンヘラに見えるかもしれないが、個人的な感覚なのだ。

けれども、6月の中旬に流れが代わり、インターンを得て社会と接点に戻ることができた。この時はほっとする間も無く働き始めたのを覚えている。秋学期ギリギリまで働き、すぐにバーチャルなセメスターが始まった。家を追い出されたのと、コロナでロックダウンしていたバークレーの雰囲気が好きでなかったので、サンディエゴを経てハワイに移動した。ベイエリアを離れるということは、ある意味なんとしてもMBA/MEngを卒業するという僕の覚悟でもあった。その時受講していたBioMEMSの授業はTechnicalでとても難しく、それを落とせばMEngのDegreeも取得できない。人との関わりを絶ってでも、なんとか生き抜いて将来のためにテクノロジーを学ぼうという自分なりの覚悟があった。さらに、単位に換算されないながらPythonの授業も取ったり、夏働いていたGenomelinkでの無給インターンを継続したりした。それも、MBA中のテックB2C PMへのトランジションを成功させるためであった。そんな厳しいコロナ禍におけるハワイでの生活の最後に、Haasの同級生と偶然ビアガーデンで出会った時に感じた、なんとも言えない偶然性と身体性は今でも覚えている。

その後は、一旦日本に帰る。年末の雰囲気は日本の方がどう考えても良かったのもあるが、Microsoft JapanからPMMインターンのオファーが出たのだ。僕の弱点はあまりにも異質なキャリアを経たせいで、スタートアップでの経験しかないことだった。将来的にビジネスを大きくするに当たっては、大企業の視点や組織も経験しておく必要がある。まさに求めていた機会が舞い込んできたと思い、昼夜逆転の授業を受けながらインターンを開始した。担当プロダクトはTeamsであったこともあり、B2B2Cでユーザーに近く、充実したインターンになった。振り返ってみると、正直なところこのインターンは良い機会ではあったが、物足りなさも感じた。何より日本語なのでかなり仕事をするのが楽で、なおかつベイエリアで本場のPM/PMMを学んできているので、周りのメンバーと比べてもプロダクトビジネスへの本質的な理解が違う。そしてボスが2レイヤー上で、ポテンシャルを評価してくれるとても良い人であったが、かなり忙しく関わる機会が少なかったというのが不満点でもあった。それもあって、Microsoft Japanに戻ることは選択肢から消し、退路を絶ってUSで勝負しようと考えた。

USに帰る頃になってAdobeの3D部門のPMのインタビューが来て、これが取れたら本当に全て報われるのにと思ったりしていた。結局それも次のインタビューにも呼ばれることはなかったが。1月2月はリクルーティングに関してはあまり力を注いでいなかった気がする。やはりNianticなど僕の本当に行きたいと思っていた会社はJust in timeでのリクルーティングだったし、立て続けのインターンで疲れていたんだと思う。

1月からはMBA/MEngのcapstone projectで憧れのAkili Interactiveと働くことが出来た。振り返ってみると、1年前に苦しんでいたMS, Akiliへの努力が時を経て報われ、今後の将来は不安ながら満足感はまだ高かった気がする。けれども他の授業も忙しく、プロジェクトは僕がリーダーとして責任を持っていたので、かなりの負担がのし掛かった。メンバーも口ではやる気があると言っていても、実際に台湾に帰ったやつは遊び呆けていて、特に協力もしてくれなかったし、別のメンバーもあまり生産的な事をしなかった。そんなかんなで僕が8割の仕事を受け持ち、また別のクラスでも、台湾の奴と一緒になり、彼はリードを取らなかったので僕が全て行っていた。それに加えて、自動車の免許やOPT申請、Tax returnなどの事務作業で完全にバーンアウトしてしまった。陰のバークレーにいるという場所の影響もあると思い、3月にサンディエゴに一旦避難し、Spring breakにはマイアミとニューオーリンズに旅行に出かけた。元はと言えば、Spring semesterはテキサスなど中西部アメリカを旅行しながら授業を受けるつもりであったのだが、Winter stormが直撃し、行けなくなってしまったのだ。ただこの時もマイアミの先端であるキーウエストでHaasの同級生と会うというシンクロニシティが起き、改めて身体的な生活の大切さ、貴重さを実感した。

そうして大分命をすり減らしながらもSpringをなんとか5月頭に終えることができた。とにかくこの頃は、「終わらせたい」ということに精一杯だった。充実してはいたとは思うのだが、多くの作業、責任から解放されたいという感覚が多く、終わらせるということに想像以上に力を使った為、新しい事を始める為のリクルーティングに割く活力はほとんどなくなっていた。

その頃にはDream companyと定めて、ネットワークを続けてきたNianticの雲行きも怪しくなっていた。繋がってきたPMやPMMの人は返信をくれることもなく、Haasの卒業生もサポートしてくれることはなかった。そんなかでもTokyo StudioのGlobal PMMのポジションが空き、これは一旦日本に帰ることになるとしても、海外へのプロダクトインパクトが持て、さらに将来的にもUSにLビザで帰れると思い、全力を尽くした。ただ、ここでも何かが繋がることはなく、no replyのタイトルの元、ありふれたrejectionメールが来ただけであった。

僕に取ってのもう一つの学びは、「人が本当に苦しんでいる時に、手を差し伸べてくれる人は殆どいない」ということだ。それは色んな理由がある。やはり本当に苦しんだ経験がないと、嵌っている人間の苦しみに共感しづらいこと。基本的に皆口では「他人のため」とかいうけれども、実際助けるとなるとReputation riskなどが伴うために、自分へ保守的に動くこと。など諸々あるが、まあそういうものなのだなと理解はしたし、そう上手くは世の中は出来ていないと改めて感じた。人を頼り信じることは大事なことだが、人に深いレベルで期待し過ぎるべきではないと自戒した。逆に、人生の岐路となる時期や危機において手を差し伸べてくれる人は本当に貴重であり、なんとしてでも将来恩返しがしたいと思うようにもなった。

そして今は、以前からやろうと思っていたUS国内を旅している。医学部やバークレーなど、どうしても陰の場所に相性が悪く、場所を変えることにより流れを変えたいと思っていた。ただ総合して、去年のインターンから一時的に流れは良くなったものの、また停滞の時期に入ってしまった。僕にとってトランジションというのは20代全てをかけて目指してきたもので、本当に最後に道が繋がらずに苦しんでいる感じだ。振り返ってみれば、この2年間は他の人よりも人一倍想いを強く持ち、人一倍多くのことをしてきたと思う。2つのdegreeに4つのinternship。そしてNianticはじめとした企業への著しいネットワーク。最後の最後で繋がって欲しいとは思っているが、現実はかなり厳しく、この前の卒業旅行のHaasCampでも、次々に道が決まっていく同級生を羨ましいと思って眺めていた。

多くの人は社会においてすんなりと道を決めていく。僕自身ある程度持って生まれた家庭や地頭など、感謝するべきことはあるが、最も重要な社会との折り合いが付けれずに苦しみ続けている。いい加減30代になったのだから、そんなことも許されないと思っている。どうにか上手くトランジションを完結し、映えある30代を過ごしたい。人生は長いのだ。

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