9月も1週間が経過した。前回の時は、かなり精神的に追い込まれていたので文章すら紡げずにいた。多くの拒絶や期待が裏切られる体験はどこまでいっても慣れることはないのだ。
そんな訳でこの1週間はStanfordのキャンパスを散歩したり、近くに住んでいる友人とワインを飲んだりしつつ、朝は毎日カフェに行き自分の信念や進むべき道を静かに思考していた。
結論としては、「自分の直感と運命を信じるしかない」というものに至った。
どこまで行っても、外部環境は自分の力でどうにかなるものではない。どんなに努力をしたところで、ベストな機会が降ってくるかというのは最後は運なのだ。かといって全てを運任せなのかというのも違う。そういう物についてどう納得するか、をここ最近はずっと考え続けていた。
僕の場合、昔から信念を持って生きている。あらゆる人生の選択肢を自分で決めてきたし、他人に頼ることはなかった。医学部に入っても、その火が消えることもなく、「自分の本当にやりたいこと」が具体的に見えていなくても、心が動く直感に従い、道を見つけようとしてきた。ただ、その信念のダウンサイドは、いわゆる安定した社会から隔絶される可能性を増やしてしまうことでもあった。もちろん、「オリジナリティ」や「一貫性」といったアップサイドもあるのだが。
そんな中で漸く水面上に出て、周りの社会に惑わされることもなくやっていけるという希望が見えた中でのレイオフというイベントであったので、かなり精神的に応えた。
この事象に対してどう捉えるか、というのは大きな自分の中の精神性を試される課題となった。危機は好機に変わる。”What is this here to teach me?”という未来から与えられた試練だと捉えようとした。ただ、どうしても時間があると現実的に考えてしまうこともあり、それを思い込むには何度も何度もそうした人のエピソードや言葉を思い出す必要があった。
またそうした言葉は、実際に本当にそういう目にあった人からの言葉でないと響かないというのもあった。LinkedInにポストしてから直接のメッセージを数多くもらったが、とても嬉しいと思う一方で、こういう時に本当に響くのは同じ目を体験した人だけなのだなとも思った。色々話して励ましをもらえる一方で、「あなたの人生の危機はいつか」という質問にきちんと答えられる人は驚くべきほど少なかった。良くいうように、今は平和なのだ。一見厳しそうに見える競争の中でも、人はある種の効率性を求めており、信念を持って非合理な道を進み、「人生の危機」に瀕する経験を持っている人は本当に少ないのだ。
そうは言っても結局は自分の道は自分で切り拓いていかねばならない。今日も先は見えないが、こういう時の思いを記しておきたいとふと思ったのだ。漸く直感に従い、そして良い流れの始まりのようなものが見え始めてきた気はする。7月からの2ヶ月間は、帰国しての婚約以外は、あまりそうした前兆といった流れを感じて生きれていなかったとも思える。
今はどんなに苦境に立たされていても、自分の直感と運命を信じ、それで道が拓けることを待とうという気分である。そして「諦めない」ということは、「自分の直感と運命を信じ続ける」ということであると悟った。一時は精神的に落ちていたが、またなんとか上手く自分のペースを掴んで、新たな自分に取って最良の道が拓けることを祈ろうと思う。