今日はとても流れの悪い一日だった。急激にベイエリアも寒くなり、体調を崩した。熱は出ていなかったが、腹を壊し、気分が悪いまま週を開けるという最悪の出だしとなった。DoorDashで頼んだ品がきちんと来なかったり、ビールを落として瓶ごと割ったり、指をハサミで切ったりと散々であったが、なんとか生き抜いて夜になった。

こんな時は静かに考えたくなるものである。前も書いたが、僕は基本的にアブダクションを用いた思考を用いる。理由は色々あるが、体が弱いので、出来るだけ脳に負担を掛けたくないというのは大きな理由でもあると思う。

そんなわけで、日々の色々な具体的体験を通して、抽象的な本質を考えている。物事の絶対的な本質はなんだろうか。特に人間の本質とはなんだろうか。これはかなり難しい。自然現象に関しては物理などを通すことで、基本的に絶対的な再現性を追い求めることが容易いが、人間社会は相対性という概念が強く、かなり捉えるフレームワークが難しい。故に文系理系という分離がなされ、僕自身も社会学や文学といったいわゆるThe文系学問は苦手である。

けれども、それでも人間の本質について考えることは好きである。いや、「“再現性を元とした”人間の本質」について考えるのが好きなのかもしれない。ギリシャやローマ時代から人間の本質は変わらない、故に歴史は本質的な意味で繰り返されている、という前提の元の思考だ。

それで考えると、人間というものはどこまでも相対的なもので、故に二つの軸を大きく揺れ動くものだ、というのをひしひしと実感している。ここでなぜ二つの軸、いわゆる二項対立になるのかというと、基本的に人間は「一つの事象しかフォーカスできないから」であると思っている。二つの事象を同時に考えて複合的な見方ができれば良いのだが、それができる人は物凄く少ない。複数の物事をこなすこと以上に、複数の見方を平行して走らせて考えることは極めて難しい、と実感する。これは日本だけでなく世界においてもそうであり、言語差は殆どないようにも感じる。そうしたX軸方向の二項対立の世界線の中でも、Y軸方向に考えられる人も少数ながら存在する。そうした俯瞰的に物事を見ることができる人たち(いつの時代もこうした人々は少ない)によって揺り戻しのきっかけが始まる。それはいつしか体制派を巻き込んで、逆側へとシフトすることになる。そうすると再びそのまた逆側へ俯瞰的にシフトする人たちが出てきて揺り戻す。こうした相対性の元に人間社会というのは続いてきたのだという思いが強くある。ただ、これも僕の安易な仮説なだけなのかもしれない。

そうした二項対立を考える中で、「人生は苦痛と退屈の間を振り子のように揺れ動く」と述べたショーペンハウアーの言葉は10代後半の頃から常に僕の頭に刻みついてきた。今のひどく忙しい社会において、一見すると退屈というのは100%良いことと認識されがちであるからだ。それが、今回の就活などを通して退屈の厳しさを味わった。一方でその後に現在USにおいて一人で海外のチームにオンボーディングするプロセスを通して、厳しい環境に溶け込む為に脳をフル回転させ続けなければならない苦痛も味わっている。こうした経験から、人生を「苦痛と退屈」という2軸で切り取ったショーペンハウアーの視座は本当に斬新であると感じる。これを現代生活やビジネスの本質、そして自分の性格と結びつけて考えた時に、このバランスの難しさをひしひしと実感している。

具体的に落とし込んで考えていることを述べたいと思ったが、あまりにも脳が疲れ果ててしまった。具体と抽象を行き来して、ロジックが繋がるように書き記すのはあまりにも体力を使う仕事だ。まだ8時台ではあるが、精神的に疲れているので、またの機会に記したいと思う。

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