少し早いとは思うが、今年一年を振り返ってみたい。
何故かと言うとそう言う季節だからだ。この11月後半から新年の一週目にかけては、一年の中でも一際感傷的な季節だと思っている。急激に気温が下がる事もあると思うが、イベントとしても学園祭やクリスマス、忘年会、そして新年の初詣、新年会など感情に訴えかけるものが多い気がする。
感情的に極まってくると過去を振り返りたいと言う欲求が出てくるのは、意外と万人に当てはまるのではないかと思ったりしている。何故なら、感情を司る扁桃体は、大脳辺縁系に属しており、記憶を司る海馬と隣り合っているからだ。まあそんなしょうもない蘊蓄はさておき、今年一年に関してである。
今年一年は、端的に例えると「夢」であった。
本当に色々なことがあった様に感じる一方で、中身が全くなく一瞬で過ぎ去っていった様にも感じる。極めてアンビバレントに感じるのだ。
これには思い当たりがある。
村上春樹の小説だ。
村上春樹の小説は多くの賛否両論があるが、あまりにも180度違う意見が飛び交っていて、あまりきちんと認識できていないことが多かった。けれども最近とても明瞭な説明に出会って、それは正に僕の頭の中に一筋の光として強く焼き付いた。
村上春樹は「夢」を描き出している。
と言う分析だ。どう言うことかと言うと、多くの人が感じている意見として村上春樹の小説は、
「読んで感動はするんだけれど、内容を覚えていない」とか「抽象的な表現があったと思ったら、「コーヒーを2杯とパンを1切れ食べた」みたいな極めて具体的な表現もある」とか「性描写がエグすぎる」みたいなことが挙げられる。
これらは正に人間の「夢」なのではないだろうか。
「夢」はその中で様々な出来事が起こる。記憶の整理という抽象的なことが起こる過程で、一見結び付きのない具体的な事象を体験することになる。その中では極めて没入的な体験なのであるが、目を醒ますと一変して全てを急速に忘れてしまう。この異質さというか、非日常感、快楽とはまた違った感覚はなかなか表しづらいが、万人が直感的に感じている。そうした感覚を村上春樹の小説では味わえるのではないか、ということが分析である。
僕はこれを聞いて、本当に雷が落ちた様に納得した。「夢」という物の神秘性と村上春樹に感じるスピリチュアリズムが初めて繋がったと感じた。
そして僕のこの一年は、正に「夢」の様であり、村上春樹の小説の様であったのだ。
多くの挑戦をした気がする。クリスマスも塾に通いGMAT対策をする一方で、エッセイで自分にとって最も大切なものを考え続け言葉を紡いだ。医師としての仕事は実は全くやる気がなくて、悶々としながら耐えていた。仕事を辞めてからは、ベイエリアやエジプト、ブルゴーニュなど言わば濃い性格の地域へ旅をし、数々の非日常体験をした。共感覚やチルなど感覚的な物に魅せられて、特に誰に習うわけもなく作品も作ってみたりした。年上の美女に振り回されて六本木のアカデミーヒルズで勉強したり、友人達と飲んだ古酒が魅せてくれる時を越えた美しさは強く心を打った。
これらは、極めて具体的かつ抽象的な事象が混ざっており、決定的に言えるのは「中間がなかった」ということだ。
どうしてかはわからない。けれども、自分の中で極端な選択をしたいと思った、いやせざるを得なかったのではないかと思っている。
ある種の極端性は中間を消滅させる。それが起きたのがこの一年であったのかもしれない。
結果として振り返ってみると、「色々あったけど楽しい一年でした!」みたいな気楽な感想ではなく、「一見楽な生活であったが、とても苦しい一年であった。しかし中身は何もない様に感じる。」という複雑なメンヘラ的な感想になってしまう一年であった。
今後、この「夢」がディズニーの魔法の様に解けてしまうかはわからない。底無し沼の様にずっと続くのかもしれないという恐怖もある。けれども、僕が今年体験した一年がとても不思議なものであった事は間違いない。
私には中間というものが存在しないのよ。私の中には中間的なものは存在しないし、中間的なものが存在しないところには、中間もまた存在しないの。だから私を全部取るか、それとも私を取らないか、そのどちらかしかないの。それが基本的な原則なの。
-村上春樹:国境の南、太陽の西