人が何かにおいて争う時、その抽象性の違いが問題となっていることは多い。

最近だと原発問題とか自由貿易とかもそうだし、LGBT問題とかも抽象度の違いが問題となっている事は多い。

そこで、抽象化はどうすれば出来るのか?

という話になる。

一般的には、自分の頭で考えろ、と言われる。

けれども、自分の頭で考える、ということは僕は結構落とし穴ではないかと思ったりする。一見、考えるということは論理的な思考を求められる気がするからだ。

僕は違うと思う。

抽象化に必要なのは論理ではない別の思考法or力が必要なのではないかと思っている。

直感という人もいるし、センスという人もいる。仮説思考というのもあると思う。

抽象的な解には、直感でしか至れないそしてそれが正しい解であるかの証明は論理が必要である、というのが僕の考えである。

この考えはずっと頭の中にあったのだが、頭痛中にふと閃いたのが、算数をどう解いていたかとの繋がりである。

僕は、答えを導く式をまず探そうとしていた。その探り方は、極めて直感的であった。何故かそれから探しに行く、という感じ。物が落ちるのをみて、まず運動方程式を探すという感じ。

そして、それを証明することなく、正しいと仮定して答えを出すということをしていた。今考えてもなぜだかわからないが、それが正しいことは多かった。そして中学になってから、証明を要求される事が増えたが、正直あまり好きではなかった。こういうと掴み所がない感じがするが、こういう感覚で数学や算数を解いていた人は意外といるんじゃないだろうか。

直感が先立って、抽象的な部分を捉え、それに則って具体的な答えを出す。

偉大なるインドの数学者にラマヌジャンという人がいる。近年映画にもなったが、彼はまた異質で、非常に複雑な公式を思いつくが、証明ができないという変わった天才である。また、フェルマーも最終定理を発見したが、証明はきちんとしないまま死んでしまった。

僕はすごくこの感覚は理解できる。

けれども、今の世の中はどうしても論理先行的なところが多くなっている。むしろ、逆説的な発想だが、文系中心の社会の方が論理的な思考法が蔓延しているのではないかと思っている。この直感がベースにあって、論理は後付けで証明の為に利用するという考え方は、理系のクレイジーな人やアーティストこそが持っているのではないかと思ってしまう。

何が言いたいかというと、数学が得意な理系は論理思考も得意、というのはダウトである、という事。

そして、今の複雑に発展して成熟してしまった日本は論理的正しさのみが重要視されてしまって、直感が入り込む余地がなくなってしまった事が創造性の枯渇に繋がっているのではないかという事だ。

かといってその論理を超えた直感をどうやったら伸ばせるのかは、僕にはわからない。

一歩間違えると感情になってしまう。

一つ言えるのは、フランスなどがやっている哲学教育や、答えのないディスカッションをする事で、直感的な解を信頼する訓練とそれを論理で補強するという練習は割と良いのではないかという事だ。

過激な話をすると、宗教とか幻覚剤とかは絶対的に有用だと思っているが、これはその裏に、きちんとした直感的な解を信頼する力と論理力の裏付けがないと、単なる感情論へと成り下がってしまう諸刃の剣でもある。究極、論理力の強いエリートに幻覚剤を与えるというのは一つの選択肢かもしれないが、こんなことを表立って言ったら逮捕されてしまうだろう笑(Googleが幹部にライトドラッグを与えているという噂を耳にしたが、あながち間違った発想じゃないと思う)

とりあえず、天才は潰してはいけない。

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