28歳も色々あった一年だった。もうあと半日で29歳になるので、この一年を詳細に振り返って残しておこうかと思う。この一年も苦しい一年であった。自分の直感に従い、論理的な正しさやシステムの合理性と戦い続けながらも、道を見つけようとした一年だった。その過程で、多くの拒絶や失敗、孤独を味わってきた。ただその姿勢を貫いたことは間違っていなかったし、自分自身にお疲れと言ってやりたい。

去年の今頃は実はまだMITに行こうとしていたかもしれない。JOMDDでのインターンはとても勉強になり、人にも恵まれていた一方で、テックやアートでの人間拡張の道を目指そうとMITでメディアラボとの関わりを探っていたかな。補欠になって、推薦状を追加で送り、裏から手も回して連絡もしてみたが、結局ダメだった。少し休んでバリに行った。あまりにもカオスで20代最後のスピリチュアル旅行としてやるべきことはやり切った感じがあった。

帰ってきて、またJOMDDのベイエリアでPre MBAインターンをすることになった。その時はベイエリアは暖かくずっと晴れていた。サウスベイに近いこともあり、かなり陽だった。平太さんとずっと一緒に色々なところに行ったり仕事したのも今思うととても良い思い出だ。その際に良くパロアルトに駐在していた高校の同級生、新井の家に泊まりに行ったのも最高だった。あの頃は、今後どうなるかわからなかったけど割とリラックスしてベイエリアの気候も楽しめていた気がする。7/4独立記念日のあたりでまゆこも来て、一緒にSF行ったりチルしてたのは本当に懐かしい。

一旦帰国して国内を色々回った後に、また8月頭に渡米した。日本は最後かもしれないということで色々な人と飲んだり話して、忙しくも渡米したのを覚えている。シアトル経由で、今後ネイティブコミュニティーでどう生きていくかを考えていた気がする。

着いてからは、また前述の同級生新井の家に行き、Ridge Vineyardsへ行ってワインを飲んだりしつつ、セットアップを進めていた。Product Managerという職はクリエイティブ、ビジネス、テックのバランスが良く、まさに僕が求めていることに合うことが直感的にピンと来て、それに関する情報収集や事前勉強をしていたな。ベイエリアでPMとして働いている日本人や去年のインターンを見つけて連絡を取ったりしていた。医者→医療機器インキュベータという限られた情報から、どうやってテックPMに転身するかの情報が乏しいまま、兎に角調べては考えの繰り返しだったな。もうレジュメの修正とかを始めていた気がする。早すぎだな冷静にw

8月の中旬にWeek Zeroがあり、集団ましてや異国の地で弾ける事が苦手な自分としては、できるだけ早く終わってチルしながら考えたいという思いが強かった。なんだかんだで乗り切ったと思ったら、次の週からは授業が開始、週末にはHaas Boatという事で、体力が持つのか、なんとかこなせるのか問題が浮上していた。MBA/MPHとして入ったこともあり、コミュニティーは一つ多く、またそこで出会った人たちも優しく、今後うまく生き抜けるのかという不安の元、希望もあり、暖かなベイエリアの陽気の元、頑張っていた気がする。8月下旬にVicというAdobe SparkでPM Internをしていた人と話す機会があった。Haas@Workという物に10月中旬に申し込み、それ経由で得た機会だと言っていた。バックグラウンドがエキセントリックで、英語も微妙な自分がテックPMにピボットするにはそれしかないと思い、人より圧倒的に早く始め、労力をかけてその機会を得ようという目標を立てた。朝7時に起きてカフェに行き、レジュメを直し、集中力は1.5時間で切れるので、それを見計らって9時からの授業に行く。色々なイベントを終えて、夜はまた9時くらいまでチルしながらレジュメやカバーレターの修正という感じだったな。9月中旬には始まって1ヶ月も経っていないのに中間テストなどあり、かなりバタバタしていた気がする。もちろんHaas学生とのソーシャルの機会もこなしながら。そして、MBA/MEngという新しいプログラムが始まるということを聞きつけ、そこに転向しようと同級生のAndyと画策した。今思うと独身で失う事がないからできた事だったと思う。すべてのスケジュールは埋まっていたし、英語の劣等感、テストやリクルーティングなどのプレッシャーもあった。

Fall Aはそんな感じでバタバタしていた。1週間のCareer WeekもCMGの面談を詰め込みまくり、ほとんどのキャリアコーチを予約し、名前も覚えられていたと思う。あんまり外には出していないが、多分この1年でCMGを使った回数はダントツで俺が多いと思う笑。

徐々にネットワークの重要性も学び始め、LinkedInや説明会で卒業生と連絡を取ったりし始めた。英語力に不安があったので、最初はチキっていたが、考えても仕方ない、リスクをとって前に進むんだとの思い込みの元、どんどん勝負して行った気がする。

徐々に周りもキャリアを気にし始めたのが10月後半あたりか。僕はAdobe Spark PM Internを目指しつつも、11月中旬-12月あたりにポストされるBig techのインターンも視野に入れていた。ただ闇雲に受けるのではなく、自分は何に興味を持っていて、なんのプロダクトを将来担当したいのかという事を考えていた。デザインや感性に興味を持ち、ARのようにデジタルの視点から人間拡張するというビジョンに惹かれていた。その時はAdobeが僕の強い目標だった。Sparkが仮に落ちても、12月のAdobeでは絶対に受かろうと、Job descriptionを読み込み、カバーレターやレジュメを細かく修正していた。インタビューもTell Me About Yourselfを始め、しっかり準備をしていた。今思うと、もっと幅広く対策しておくのとLinkedInによる個別ネットワーク爆撃を進めておくべきだったのかなと思ったりする。僕は自分の思いの結晶化に時間をかけ、納得してから進むタイプだったので、それが裏目に出てしまった感はある。例えばAmazon PMポジション等は、応募はしたが、Culture checkのリンクを見て、このような感性に問いかけない会社は僕に全く合わないと思い、10秒でサイトを閉じてしまったのを覚えている。自分のエゴに固執せずに、もっと寛容に幅広く見ておいた方が道は拓けたのかなとか今になると思う。実際、MBAピボットでPMなれる可能性はAmazonが一番高かったしね。いやわからない、あそこで「自分は何がやりたい」というポジションを取ったことは誇るべきことなのだと思う。僕のアイデンティティは競争で勝ち抜く、PMというタイトルにあるわけではないし、「個人とシステムが戦った時に個人の側に立つ」というのは僕の心に昔から刻まれている哲学なのだから。

そんなかんなでFall Bに入り、Marketingの教師が突然変わったりとドタバタもあった。Adobe Spark PMからは1st roundインタビューは来たが、その後は音沙汰なしだった。周りにはデジタルマーケとかのバックグラウンドのネイティブ女性が2nd roundに呼ばれたりしていた。どうして呼ばれなかったのかというフォローをしたり、この時正直かなりがっかりしたが、直ぐに次に進もうと奮い立たせてAdobe regularのポジションを狙いに行った。この時期はThanks givingなどもあり、メキシコやシアトルなど色々なところに旅行する機会があった。やはり集団に溶け込めない性格もあり、メキシコトレックは精神的にキツかった。メキシコシティ自体は良かったが、飛行機乗り換えやAirbnbの戦争など今思うと辛かったという感覚が湧き起こってくる。Andyと最終日に逃げてスタバでチルしていたのが懐かしい。シアトルはAmazonとMicrosoftの本社トレックだった。その前月に新井とPortlandにビールやアート巡りに行っていたのだが、雰囲気が似ていた。涼しかったし、晴れてはいなかったけど楽しかった。

12月は精神的にも厳しい時期だった。もちろんリクルーティングの焦りもあるし、テストも重かった。MBA/MPHで19単位を取っていたし、Finance, Accounting, Ethicsなどの怒涛のテスト。一方でAdobe以外のプランBの会社へのカバーレターや対策など、脳が休まるところはなかった。僕は昔からそうなのだが、こだわりをもつとそこに専念してしまう事がある。Adobeだけでなく、こだわりなくジェネラルに会社を見て、周りとも上手くやって対策できれば物事は好転したのかなとか思ったりする。CiscoとかAbbottとか目指したりね。不器用なんだろうな。

後そうだ、重要な事を忘れていた。Japan Trekだ。3月にHaasの学生を連れて日本旅行するというイベントがあり、そのLeadをやっていた。日本の環境は僕が働くには合わないと思っていたが、日本という国自体は好きだし、文化やそこの人たちも素晴らしい。日本人としてそれを代表して楽しんでもらう旅行にしようと思い、旅行代理店NTAの奥さんと綿密に連絡を取り、学生の意見も取りながら組み立て行った。そうしたらなんと80人も行きたいと言ってくれた。広島や大阪、日光や鎌倉、山形など出来るだけ希望に沿う形にしたいと頑張っていた。2年前の卒業生うっしーにそれを話したら、Leadを立ててやるのはあまりにも大変すぎるからやめた方がいいと言っていた。ただ、なんか僕はクオリティを担保するにはその形の方がいいと思ったし、周り5人で決めるのは意思決定が遅くなると思ったので、僕がLeadに立って物事を進めて行った。

12月中旬過ぎにその限界は見えてきた。バーンアウトした(かけた)のだ。思考が集中できず、ずっと疲れている感じを持っていた。完全にバーンしていたと思う。そりゃ無理だ。全部こなすなんて。なので、どれか一つでも早く終わり、新しい前兆が見える事を望んでいた。前兆と言うものは感じるものなのに、どうにかして見つけたいと言う思いが先走っていた。12月12日にiHouseカフェにて座っている際に、「こうやって大企業を受けている自分は本当に自分なのだろうか」と言う事をふと思い立ち、スタートアップで働く方がエキサイティングだと言う直感を得た。わからない、これもまた自分のこだわりというかエゴなのであるが、もっと周りを固めてから挑戦した方がいいと言うのはわかっていた。大企業というプランBをきっちり固めてから、そう言う挑戦にレバレッジをかけるとか色々出来たはずだった。ただ、僕のある種疲れ果てていた心はそう出来なかった。

試験をなんとか乗り切り、Haasのドープな友人たちとVision Questをした後に、一旦帰国することにした。ハワイを経由して帰ることにした。その際に陽くんと会って飯を食ったり、ビーチサイドで酒を飲んだりした。あれは今思うと天国だったな。一人で登ったダイヤモンドヘッドも清々しかった。クリスマスイブとかだったけど気にしなかった。最終日(クリスマス)は雨だったけど、やっと日本に帰れると言う感覚が強かった。帰国後は箱根に友人と出掛けた。バーを主体としたホテルで、最上級のチルであった。その友人も良い意味で考えすぎないクズで。リラックスして過ごす事ができた。その時箱根は去年の土砂崩れの影響で、登山鉄道とかが動いていなかった。湯本で食べた穴子チラシや日本酒は今でも忘れない美味しさだった。

そんなかんなで2018年末と同じで年末は家族で山中湖で迎えることになった。ついに2020年になると言うことで、不安定な現状の元、オリンピックを始めとして新しい10年が始まり、自分の人生にとっても大きな転機になるという希望を持って迎えたのを覚えている。新年も箱根駅伝を見たり、いろんな人に会って回復して、またハワイを経由してベイエリアに戻ってきた。

帰ってきた時ベイエリアは雨が降っており、陰の雰囲気であった事を覚えている。正直、何かが上手くいく感覚はそこではなかったし、陰鬱だった。Adobeからの知らせはなく、不安ではあったものの、Apple Watch PMMのインタビューが来ていたのでなんとか前向きに進んでいた。なんとかインタビューを行い、全力は尽くしたものの、セカンドに呼ばれることはなかった。周りがどんどんインタビューに呼ばれる中、僕自身の価値や自信はどんどん萎んでいった。そんな中でも、こっちでPMをやられている曽根原さんにお会いして励ましをもらったり、ずっと前からメンターである金子さんにサンマテオで会い、金子さんのMBA時代、卒後の話をお聞きして前向きに気楽に頑張ろうという元気をもらった。

1月23日からSpring Aが始まった。コアの授業は以前と比べて少なくなり、EntrepreneurshipやNew Venture Financeなどスタートアップ中心の授業になり、モチベーションも湧いてきた。最初の1ヶ月はまさに就活真っ最中という感じで、以前のこだわりも捨てて、とにかくテックProductにはゼンツした。インタビューが来る人は複数来ており、オファーも近いだろうことも感じ取れた。一方で僕は自分の無謀な挑戦とどう折り合いをつけるのかということの元、それでも何かが開けると信じて突き進んでいた。

その際にNianticという企業に再び興味を持った。僕自身の最終的な目標として人を幸せなWellbeingな状態にするというというものがあり、それに楽しんで持っていけたらなという思いはずっと持っていた。Haas入学前に日本にいた際に、Nianticに興味を持ち、日本代表の人を紹介してもらおうと思っていたが、立ち消えになっていた。それが再びひょんなことからそのビジョン“New Exploration, Exercise, Social Interaction”とGeolocationを基としたAR技術に惹かれて、これに全力を掛けるべきだという直感が走った。NianticはPokemon GOの成功もあり、もうvalで$4Bもある有名な会社になってしまった。けれども、できてまもないが故に、MBA生の中ではここに行きたいと熱意を語るものはいなかった。さらにFounderはHaas出身のJohn Hanke、CMOやDirector of PMMもHaas出身。さらに僕の考えているプロダクトジョブのトップであるVP of ProductがKei Kawaiさんという日本人であった。これは前兆が後押ししてくれていると思い、あらゆる手段を使ってネットワークをした。30人以上にLinkedInを使って連絡したし、同級生や別の日本人からの紹介、挙句にはメールアドレスをランダムに狙い、連絡を取り付けた。そうすると昨年はUndergradではあるが、Product Marketingのインターンを募集しているとの情報を得る事ができた。まさにこれは僕の為にあると救われた気がした。Undergrad向けで、採用は6月と遅くなるというのが気がかりであったが、なんとかそこに入ろうとHiring Managerやそのボスに至るまでネットワークをしつくし、多くの情報も吸収した。NianticのFerry BuildingでPM,PMMで誰がどのプロダクトで働いていて、大体どのような構造になっているなど把握するくらいストーカーじみていたと思う。それくらいしないと入れないと思っていたし、それくらいの熱意があれば不可能も可能になると思っていた。この頃はVinod KhoslaのStanfordでのスピーチをよく聞いていた。“With enough persistence, most things that seem impossible become possible”というフレーズは僕を奮い立たせ、時たま迫りくる合理性と闘っていた気がする。

もちろんCMGとの連絡も密に取りながら、プランBも頭の片隅にもあった。いくつかの企業からはインタビューに呼ばれることもあり、その都度テンションが上がったりした。他にもAkiliというゲームを用いてADHDを治療するスタートアップがあり、そのファウンダーや社員と繋がり、オフィスに行くこともできた。けれども、やはりタイミングはいつも悪く、「今はインターン取っていないんだよね。。」と言われるのが常であった。僕自身職歴はインターンのみで弱く、医学やパフォーマンスといったバックグラウンドやビジョンを認めてくれる人は少ないと思っていたので、実力をつけようと考えた。EntrepreneurshipのクラスはPinterest Product LeadのFaridとSalesforceのProgram ManagerのSriとチームを組む事ができた。Faridの持っていたMVPをどうさらにターゲットを絞りスケールさせていくかというテーマの元、希望を取り戻し進み始めて行った。暇になったSpring breakの最中にはUdacityのProduct Manager Nanodegreeも修了した。

そこでコロナが来る。1月の時点では特に何も意識してなかったが、2月に入って雲行きがおかしくなる。ダイヤモンドプリンセス号の時点で、SFから日本に電話して呼吸器の岡田くんと話して、日本はもう蔓延しているかもねと話したのを覚えている。感染力と日本の密な状況を鑑みると、まず広がるのは間違いないと思い、Japan Trekを中止にすることにした。これも2月中旬では「まあいけるっしょ?」的な論調などあり、全体を鑑みて意思決定をする難しさを知ったし、ストレスも溜まった。それをまとめあげたのが2月末。3月からはある種、開放されたと思ったが、もちろんリクルートメントのこともある。まだこの時はUSがこんな感じになるとは思わなかったし、SFにBARTでいってネットワークとかをしていた。3月中旬にSpring Aの期末があり、それをなんとか乗り切ったものの、リクルートメントにおいての良い前兆は全くなかった。そして、NYでの感染爆発。校内にもやばいんじゃない?という雰囲気が流れ始めた。

3月13日にNianticのDirector of PMMのArchitと会う約束をしていた。それが今後のインターンにとって大きな力になると思ったが、それもZoomで会うことになってしまった。思えばそこらへんから暗雲は立ち込め、前兆は消えてしまったように感じる。その後は全てが裏目というかスタックして行った。

Entrepreneurshipは色々学ぶ事ができたが、Pivotを余儀なくされたし、ビジョンに固執し、きちんとMVPを作るなど前に進める事ができなかった。リクルートメントもちょいちょい面接はあるが、次に繋がらず、自信もなくなって行った。そんな最中、Googleで働いている友人の夫がFireworkで働いている事を紹介してもらい、Growthチームでインターンできるかもしれないという希望が生まれたが、やはりコロナ下にいうて不確実という事で立ち消えた。NianticもずっとArchitと連絡を取り続け、CEOやその他の人にも連絡を取ったが、サポートしてくれる事は無く、今年は様子を見てEngineer以外のインターンは取らないということになった。ひょんなことで連絡したMicrosoft JapanのMarikoさんから教えてもらったPMM Internも応募し、色々な人と繋がれたが、やはりコロナの状況下でどうなるかはわからないと言う話になった。結局今に至るまで70社以上出し、そのうちカバーレターは35社以上。ネットワークも数え切れないくらいしたと思う。マーケティングのFunnelではないが、数打った中で、契約に繋がるものは少ない。この一年良い線言っているものはいくつかあった。Adobe (Spark)やApple、Akili、PlayStation、Firework、そして何より大本命のNiantic。本当に後人推し行ければ、次に繋がり未来が開けると信じていた。

けれども、結局どれも繋がらず、29の誕生日、そして夏を迎えてしまった。悲しいと言うよりは振り返ってみて、「苦しい一年だったな」と言うシンプルな感想が強い。まあブログでも書いているが、ずっと苦しんではいるのだが笑、今年は尚更苦しい一年であった。ここまで1時間半かけて一気に書いてしまった。こんなに長い文章になるとは思っていなかった。けれども、これらのどれもが僕の中で大事な出来事であり、僕が正直にその時何を考え、何を感じてきたのかと言うことであった。今日はリラックスして残りを過ごしたいと思っている。こんな時でも美味しいワインは僕の痛みを和らげ、その共感覚的な幻想の元に連れて行ってくれる。

今日は昨年末AndyとSevithというMD/MBA/MEngの3idiotsと一緒にナパに行ったOpus Oneのセカンド“Overture”を開けようと思う。Overtureとは音楽で「序曲」という意味であり、20代最後のパートを迎える僕に取っては相応しいワインだと思っている。苦しみの中でも戦い続ける人生の「序曲」をなんとか生きて迎えられたことに感謝して、このワインを嗜もうと思う。

それではまた。

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