ずっと書いてきている、というかMBA受験を終え、仕事を辞めてからの半年、ずっと悩まされていることであるが、現実との折り合いが取れていない。端的に言って地に足がついていない。
自分の中で納得した具体の選択が出来ていないのだ。
誰が言ったか忘れたが、幸せというものは「短期的」目標の達成の連続という要素が強い。
こうビジョンや理想の世界というものは、聞こえは良いが所詮「長期的」目標であるので、幸せには寄与しない。さらにその世界との現実の自分とのギャップで苦しめられ、どんどん精神がすり減ってくる。思考がオーバーヒートして休まらない感覚である。
この底なし沼のようなループからは、抜け出さなくてはならない。解決策が必要だ。
具体へのアクセスが必要なのである。
具体的解決策としては、人間に備わった一番の武器である「理性」を使うことがまず思い浮かぶ。ビジョンにはこういう要素があって、今取れる選択肢だとこれが相応しいからこれを選ぶ、と言った考え方だ。けれども僕にとってそれは役に立たない。僕のビジョンはこんがらがった糸の様に複雑性を秘めてしまった。それが故に、現実で世界で論理的に当てはまるものを探すのは不可能なのだ。砂漠の中で、落としたコンタクトを拾う様なものである。スーパーコンピューターでもあれば良いが、残念ながら僕の脳は普通の人以上に体力がない。まあそれが故に抽象思考をする節はあるのだが。
そこで新しい武器を手にする必要がある。「直感」である。
高城剛や村上春樹、オプラ・ウィンフリーなど、数多くの人が理性でどうにもならない時の自分の直感や宇宙の導きといったスピリチュアルな存在を信じてきた。僕も昔はその存在を理解していたし、実際に自分の思ったようなことが導かれるという体験はいくらかした。
けれどもどういう訳か、この1年、いやここ数年、その感覚が全く欠落してしまった。これだと思う啓示のような物はあっても、それがのちに続かないことが多い。金子先生との出会いからのStanfordでのMBA受験もそうだし、インターンや共感覚など、多くの「具体へのアクセスの兆し」はあった。けれども、その先の具体への没入はなかった。結局具体が醸造されず、抽象と結び付いて結晶化する事はなかった。
これは結構体に堪える。
「直感を信じる」ということは意外と骨の折れることなのだ。周りがしている事の迎合せず、自分の中の声にイエスという。これは孤独と隣り合わせである。共感という概念から離れなければならない。
けれどもその直感は働かない。
こればかりは僕にはどうすることもできない。けれども、論理にも直感にも頼ることが出来ないでいると、日々魂が擦り減っていくような気がする。これは想像以上に辛く、気を抜いたら壊れてしまいそうであり、Kagamiという友人がいてなんとか引き留められていることもある。
また僕は、そうした直感は、働く土壌、環境のようなものが必要だと思っている。心の持ちようもあるし、音楽や良いアートなど感性を繊細かつ洗練されたものに保っておくことだ。多分だが、僕が今、共感覚など感覚における一流さを求めているのは、その直感を何とかして呼び覚ましたいという気持ちが強いからなのではないか、と思ったりした。
魂のカウントがゼロになる前に、具体と抽象を結びつける直感の導きが得られることを祈るしかない。