現在松本から書いている。

この一年は僕にとってはいわゆる激動の一年であったし、世の中的にはコロナでピタッと時が止まってしまった一年でもあった。僕自身、この3か月ほど文章が書けずにいた。それは、日々の仕事やアカデミックで脳内リソースが割かれており、漸く今になって落ち着いて考える時間が出来たという感覚がある。多分だけど、文章を書いたり何か作品を作る際に、メタから確定させる必要が僕の中であって、具体的な作業に追われているとそのメタを確定させる時間がないんだと思う。もちろんメタを確定させなくても頑張って書くことは出来るけれども、作品としての奥深さや抽象性の欠如による散漫さが目立ってしまう気がしている。

そんなかんなで1年を振り返ってみる。

今年の年初は実は日本にいて、ついに2020年ということで、Happy New Decadeと個人的にも期待に胸を膨らませていた。直ぐにベイエリアに戻ったが、インターンのリクルーティングで苦しんだ。この時のバークレーは雨が降り寒く、青白い冷たさを感じていた。金子さんにお会いしたり、日本人を尋ねたりと僕なりに現実の苦しみは自覚しながらも、なんとか道を模索していた気がする。Electiveのクラスも始まったのも1月だ。EntrepreneurshipやNew Venture Financeといったクラスでベイエリアの本質を学ぼうと期待していた。一方で、キャリアが僕の中の最も重要な部分であることも頭の中にあり、インタビューが始まったものの、何かが手に入る感覚とは程遠く、英語の不十分さも相まって、自信もなく、周りの友人たちは次々にピカピカのオファーを獲得していったのを眺めていた。

Tech Industryで世界の中心であるベイエリアでPMとして働く、ということをMBAのゴールに決めていたことからも、少しでもそうした機会を得ようとネットワークをしたり、クラスでそういう人たちとチームを組んだりしていた。ここらへんの話は以前のブログに書いた気がするのでいったん割愛する。

そんなかんなで5月まで度重なる拒絶とコロナによる絶望が重なり、完全にバーンしていたが6月にふとしたことからスタートアップ2社でのインターンが決まった。どちらもPMで、天は我を見捨てず、という感じで「なんとか生き残ったな」と感じた気がする。度重なる拒絶の後に降ってくる機会の際は、単純な「歓喜」という感情はなく、「なんとか繋がった」という生存本能的な感覚であるのだと思う。個人的な話だが、つい先日沖縄のひめゆりの塔に行って生存者インタビューを聞いて、同じ感覚を感じた。死の恐怖と絶望から解けた際のひと先ずの安堵という感覚で、またかといって希望が存在しているわけでもないので、とりあえず生き延びたという事実が残っている感じである。もちろん戦争と比べると実際に生命の危機もなく、客観的に見たらしょうもない話ではあるのだが、僕自身大きなキャリアチェンジをする中で、それに失敗し這い上がれないことは、奈落の底に落ちることと同じ感覚があったのだ。

そうしてモバイル3Dスキャナーとコンシューマーゲノムのスタートアップでインターンをした。2社とも全く違う文化を持っており、一方でPMとしてはエンジニアとあまり関わることが出来なかったけれども、多くのことを実践に移せ、もがきながら前に進んでいった日々であった。

生活は破綻しており、最初の1か月は何とか良かったのだが、家を追い出され、パロアルトに行ったり、サンディエゴに2週間、そして親戚が持っているハワイのコンドへと移動することになった。今振り返るとこの選択は間違っていないと思っているが、実際にこの決断は大変だった。何かを得るということは何かを捨てることだ、ということをまさに実感した。もちろんバークレーの周辺は半分ロックダウン状態で何も新しいものが生まれる気配はなかった。一方でMBAの友人たちとテニスをしたり、情報交換をしたり、時には家のみをしたりといったソーシャルの場は少ないながら存在していた。サンディエゴやハワイへ行くことは、旅をしながら授業を受けることが出来るという一石二鳥の一方で、誰も知り合いがいない中で3か月近く過ごすという孤独との闘いを意味していた。僕の中ではアカデミックと自分のキャリアチェンジがFirst priorityであり、そうした孤独はもともと甘んじて受け入れてきたこともあり、耐えられると思った。けれども、ソーシャルとそれから生まれる偶発性も重要だとも認識していた。何よりせっかくベイエリアの一流MBAに留学しているのだから。ただ、やはり最後は「人とは違う道を選び、自分の力で選択していくしかない」という思いの元、ハワイへ旅立つことを決めた。

実はハワイでは時間はあったので、何回か日記を書こうと試みた。けれどもどうしても脳内は具体的な事象の解決とその後のビジョンに向いてしまい、書を認めるということは出来なかった。9月末あたりから移動したのだが、その頃はまだロックダウン中であった。ワイキキのコンドの19階ということで場所は申し分ないところに移動したのだが、その時は想像以上に観光も止まっており、ワイキキも誰もおらず、コンド周辺も浮浪者がいたりして結構陰な雰囲気であった。

ハワイで主にしていたことは、一旦ベイエリアを離れて静かに現状を見つめなおすことと、dual degree+インターンの作業、そして今後について考えることだった。それなので、サーフィンをマスターしたり、ビキニの女の子に声をかけたりする時間はなかったのだ。Dual degreeの特にBioengineeringのBioMEMSの授業はきつく、新しいテクニカルな概念をMBAと並行して学ぶのは本当に骨が折れた。PhotolithographyやMicrofluidicsといった技術を基礎的な数学・物理の部分から学んだ。ナビエストークス方程式といった数学のミレニアム問題で耳にする概念を使用したりと、流石はMasterレベルのEngineeringだなと圧倒され、多くの人に聞いたり、同じチームのPhDスチューデントに迷惑をかけつつもなんとか生き延びたという感じだった。あまりにも高度過ぎてそれがダイレクトに何の役に立つのかは正直分からないが、「点を打った」という感覚はあり、それが将来的に繋がっていくだろうという直感もある。

その他もGenomelinkでPMインターンとしてレポートプロダクトのConversion改善に勤しんだり、MBAのNew Product Developmentの授業でチームでプロダクト開発を頻繁に行ったり、なによりInformation schoolの授業でPythonの課題をこなすので時間は進んでいった。この学期中は多くのインプットを得たが、全てPMに関連するハードスキルであったし、あえてそうしたのもある

ワイキキも10月半ばなどから、本土からの観光客も徐々に増え、ホテルなども稼働を始め、にぎやかになってきた。時折マイタイやピニャコラーダを飲みながら静かに考えたりしていたが、やはり2か月近く一人で生活するのはかなり精神的に厳しいものがあった。

丁度夏にする予定であったMicrosoft JapanでのPMMインターンが冬に出来ることがわかり、一時帰国を検討した。僕自身、スタートアップ2社でPMインターンを行うことができ、dual degreeも何とかこなしていたものの、卒後まともなテック企業のPMとして働けるほどの強いバックグラウンドはなかった。また、USも完全にコロナでフリーズしており、ThanksgivingからXmas、そして新年にかけていることによる機会損失や医療崩壊に巻き込まれたときのリスクが大きいと感じた。そのため、11/23に日本に帰国し、2週間の自宅待機期間を利用してオンボーディングして働こうと決めた。まさにThanksgivingで授業もなく、なんとかやりくりできると見込んでいた。

そして実際に働き始めたのだが、PCトラブルやらで躓き、また想像以上の大企業の組織の複雑さで結構苦労した。誰も直接的に助けてくれるわけでもないし、どういったことをやれというタスクも曖昧であった。正直スタートアップでの経験から、そうした自分で切り開く感覚は慣れているのだが、まあそれでもdual degree、そのほかに重要な友人とのIn person meeting、そしてクリスマスに向けての予定セッティングなど、全てをうまく回して考えるのは相当堪えた。ただ、MSの人はとても協力的で、基本的に何事に対してもWelcomeであったので、自分から動けば動くだけ返ってくる満足感を感じた。

B2BのPMMとしては初めての経験であったのだが、とても良い選択をしたと思っている。ここまで大企業にリソースが存在しているなんて考えもしなかったし、周りの人も優秀で理解もあった。さらにオフィスにも一応出勤出来て、タスク外の面白そうな仕事もどんどんやることができる。一方でその複雑性の理解の困難さや、B2Bならではの合理性、日本支社であるが故にプロダクト開発からの遠さなどのダウンサイドも存在していた。

大分冗長になってきたので、シンプルに纏めると、今年2020年は僕の中で2013年のアポロシアターから7年ということもあり、節目の年として意識していた。けれども、多くの人を苦しめたコロナや、山火事、大統領選挙などの外部的要因に振り回されることとなった。一方で、個人的にはインターンの就活で80社からリジェクトされたり、インターンも正解がわからない中、自分なりにもがきながら取り組み、今後のキャリアを模索した。住んでいた家からもキックアウトされたり、女性関係は前半は助けられたものの、今後を考えられるような人と出会えることはなく、これもまた多くの拒絶を経験した。

そんなかんなで、今年は度重なる拒絶の中でももがいて前に進んで、なんとかスタートラインに立てそう、という感覚がある。池に突き落とされて、ずっと上から頭を押し付けられてもがいていたが、漸く水面上に出て一回二回呼吸できたという感じだ。それは、今までIt didn’t feel rightであった臨床医療の分野にいた苦しみや、そこから抜け出し、テクノロジーの分野に舵を切る際の拒絶、今まで漠然と持ってきた感覚の拡張やチル、3D、xRというビジョン、こうしたものと決別し、漸く光が見え始めてきた感じを持っている。

来年2021年はどうなるのだろうか。コロナだけでなく、金融市場でも一波乱あるだろう。オリンピックは開催されるのだろうか。僕自身は1月にまたベイエリアに戻るつもりだ。日本での生活は久々に安心安全を与えてくれ、自己肯定感も強まった。けれども、もう一度成長のためにリスクを取り、世界で戦える男になる必要があると感じている。今年は苦しい年であった。けれども、それを若いうちに経験できたことは振り返ってみたら幸せなことなんだろうと思う。自分のエネルギーが続き限り、出来る限り理想を追い求めて進んでいきたいと思っている。

それではまた世界のどこかから。

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