良く僕は思考の方向性として、帰納と演繹という言葉を使うが、なぜかというと明らかに性質が異なるからだ。
帰納的な人やグループは、エクセキューションや具体的な事象を好む。オタク的なエンジニアに多いイメージがある。一方で演繹的な人は、抽象からスタートすることもあり、抽象的な概念を好む。哲学的になることも多く、アートに造詣のある人が多いイメージ。
そうした中で、僕は思想が失われていると危惧することが多い。
なぜかというと、テクノロジーが急速に発展したせいで、演繹的に考える環境や間が失われているからだ。新しい技術やデバイス、研究がどんどん出てきている。
ITにおいてはDeep learning、xR、ドローンなど。医学においても論文数はexponentialに伸びている。インターネットができて学びが効率化されたと思ったら、覚えるべきことはそれにも増して伸びている。
そんなかんなで結局、IT革命によって
生活の効率化<拾うべき情報量
がずっと起きてきているんだろう、という結論に至った。
初期のITの人たちの思想としては、
生活の効率化>拾うべき情報量
で余った時間で、人間的な生活ややりたいことをできる範囲を拡大することを目指していたんだと思うけれども。
僕自身ははこの、「生活の効率化<拾うべき情報量」はシンギュラリティまで続くと思っている。それだと何が悪いかというと、やっぱり人々の思想を形作る抽象性の部分を見つめる時間が取れない、ということだ。
僕は人は抽象的な視座で眺められてこそ、その人の魅力や差異が出ると思っている。確かに色んな事を知っていても、それを繋げるストーリーこそがその人自身を作り、ストーリーとは抽象性の紡ぐ糸のようなものだと思っている。
個の時代がくる!とかいう人がいるし、僕もそうあって欲しいと思っている。
けれども、単純に炎上して目立つような、思想がない人間にはなりたくないと思っている。各々の哲学を尊重できて、他人の哲学には寛容であれる時代こそが、個の時代なのだ。